寂しい仲間との別れ

昭和44年前後
23才前後

入り船あれぱ出船もあります

この頃は職業安定所を通じ、天草の中学、高校何処の学校へ求人申し込みをしても「竹森工業」の組織力・福利厚生どれを取っても受け入れ態勢は最低で手書きの求人票を見ても入社する生徒は1人もいなかった。したがって、縁故か伝を頼りに卒業する生徒の家を一軒一軒巡り、1度断られても2度、3度と訪問しては、どうか息子さんを私に預けさせて下さい。と、一生懸命にお願いして廻った。最初の年は1名入社、翌年は何処の息子さんも行っているからと、毎年何人かの少年達が就職して来た。しかし、勤務年数は何年も続かなかった。

仕事を頂く会社毎にそれぞれの工場へ通い、その会社で工場製作を行なって現場組立をして完成させるのだが、問題も多かった。何処の会社も大きな工場は無く、会社の班の場所を間借りして製作するのだが、会社の従業員が優先的に良い場所を占領し下請けの人間はいつも隅っこでの作業を強いられていた。天井クレーンも1基か2基しかなく、本工が使用するとなかなか貸してくれず、たとえ使えるようになっても直ぐに本工の人に取り上げられた。しからば誰も居ない夜中にでもしなければ仕事はかどらない。そのために本工の居ない夜間に仕事をする選択肢だけしかなかった。

近い現場工事だと朝早くから夜遅くまで、私が結婚する昭和44年8月までは自炊をしながらの生活でもあった。(当時の下請けの組は、何処の組もほとんどがそうであったが・・・)そんな劣悪な作業環境と厳しい労働条件に、若い少年たちは夢を失い、1人去り2人去り、それぞれ新天地へ転職していった。せっかく私を信頼してきてくれた若者との別れはとても切なく、身を切られる思いだった。天草を出る時、それぞれの若者の両親から「俺の家の子供を宜しく頼むからね!」と笑顔で見送ってくれた顔が脳裏を複雑に交差していった。

それでも私を信頼して残ってくれた仲間たちがいた。将来の希望がないと去って行った人が正しい選択で、留まった人が不幸だった。と思われる結果にしてはいけない。「残ってくれた彼らの熱意と努力が報われるような組織をつくろう」と強く心に刻んだ。

今の現状は荒れた開墾地を開拓してやっと苗木を植え付けたばかりなんだ。この苗木がしっかり根付くまでは暑い日でも寒い日でも繰り返し耕し、肥料をやり、水を撒かなければならない。大切に育てた木は少しの実がなり葉をつけても取るまい。もっともっと葉が茂り、いっぱい実をつけるまでは決して獲るまいと心に誓った。

野帳場歩きの時に、賭け事に夢中になって組を潰し、借金地獄に陥って夜逃げを仲間を大勢見てきた。また、博打に負けてお金を借りても返さない人が何人もいた。何事もやりだしたらトコトン見極めないと気が済まない自分の性格が恐く、賭け事はやるまいと決意した。(現在でも、競馬・競輪・競艇等すべての賭け事はタブーとして封印したままである)

会社を大きくするためには個人で残すのではなく、会社の資産を増やさなければ組織は拡大できない。そのためには、一銭でも多くのお金を稼ぐことだ!それからは辛抱辛抱でただひたすらに働いた。