社屋建設

昭和49年12月
29才

男は一生の内に何度か命を賭けた決断を迫られる出来事があります

昭和47年の初頭から皆が一緒に住める3階建ての集合住宅の計画を立て、自分で様々な形態の部屋割り図を描き、検討を始めた。しかし、素人の悲しさでなかなか旨く行かず悩んでいた。

その頃、安藤鉄工所に勤めていた冨永さんが、鳳設計事務所を経営している友人の小野寺恒夫代表を紹介して下さった。小野寺さんは、ご自身も一級建築士であった。まだ土地も決まっていないのに「3階建てで1階は事務所と独身寮、2階は妻帯者用の社宅、3階は・・・」と、自分で描いた図を示しながら設計を依頼した。だが、建築基準法等法規に疎い者の考えは浅はかだった。まず建物を建てるには地域によって建ぺい率・容積率・北側斜線・高さ制限等の様々な法規制があり、土地が決まっていなければ設計は不可能な事を教えられ、早速土地探しを始める事にした。

当時は江東区猿江町に住んでいた関係で江東区周辺を重点的に探し歩き、空き地を見つける度に不動産屋に飛び込んだ。しかし、近隣の土地は高く、少し便が良い場所だと一坪75万円、立地条件の悪い処でも60万円以上はした。私の計画では敷地面積は100坪以上、価格は一坪15万円から20万円以下と考えていたため、まるで雲をつかむような値段であった。「錦糸町周辺にばかりに拘っていたら何時までたっても実現は不可能。ここは発想の転換を計るべきだ」と思い、仕事が終わってから毎日のように江戸川区、新小岩方面にまで足を延ばし、30ヶ所以上も探しまわった。

場所は気に入っても希望する値段とはかけ離れ、落胆しながら、これが小岩地区最後の不動産屋と考え、駅から離れた不動産事務所を訪ねた。そこで私の話を聞いてくれた年配の社長は「その予算ではここら辺は無理でしょう。でも、私の息子が鎌ヶ谷市で不動産事務所を開いているので紹介して差し上げましょう」と場所を教えて下さった。

鎌ヶ谷市は車で1時間はかかる。東京まで通うのはあまりにも遠い。家に帰ってあれこれ一晩中思い悩んだ末、可能性を追求することが第一と考え、翌日、仕事を早目に切り上げて強い雨の降りしきる中を鎌ヶ谷へ向かった。着くとすでに夕闇の迫る時刻だったが、不動産事務所を訪問、駅から徒歩10分程の現場に案内してもらった。土地を見た瞬間にこれだと感じた。

翌日、値段の交渉で一坪26万円と提示された。こちらの予算は20万円以下しかないと必死にお願いして235,000円でまとまった。早速、小野寺さんに役所へ行って頂き設計に着手してもらった。

昭和49年はオイルショックの年でガソリンや灯油が極端に不足、後世に名を馳せた「トイレットペーパー騒動」が勃発した年である。大行列をして並んでもなかなか手に入らず、新聞紙を丸めてお尻を拭くなど、まるで戦時中に逆戻りしたかのような騒動だった。景気は極端に落ち込み、失業者も増加の一途だった。

我が社もその例外でなく、物量は半減して価格も著しく下落、仕事をしても給与分の半分しか稼げなかった。このような状況下ながら社宅の鉄骨を製作しようと決めた。計画では社屋を建設するには時期は少し早く、機は熟していなかった。だが、この現状では仕事をしても赤字の上、社屋建設をする際には必ず鉄骨を製作しなければならない。他の業者に頼んで高い代金を支払うのだったら自分の手で造った方が得策と決断した。

大成鉄工殿のご厚意で工場を貸していただき、鉄骨の製作を開始した。当初は製作だけして様子を見る予定だったが、せっかく建物の部材が全部出来上がるのにそのまま寝かせて置くのはもったいないと計画を練り直した。鉄骨組立ては自分の手で出来るのだから1度に完成させなくても1階部分だけでも建てようと思った。しかし、基礎や内装の建築関係の業者は殆ど知る由もなかった。

ある日、小西下宿のおばあちゃんから電話を頂いた。用件は「若い子から聞いたが、鎌ヶ谷に引っ越すそうですね。私の娘が嫁に行った先が建設関係の会社を経営しているから、ぜひ使っておくれ」と那須設計工務の平山忠社長を紹介して下さった。ちょうど土木業を探しているところだったので、渡りに船で基礎工事をお願いした。

鉄骨の組立て工事は自社で行い、昭和49年12月25日クリスマスの日に本社&社宅の上棟式が行われた。内装の大工工事は父の弟の久叔父の紹介で、大宮で工務店を経営している天草出身の川又伊作さんに依頼した。左官工事の段取りは久叔父が、左官は京都の弟や東京の親戚にお願いして行われた。私は慣れない建設現場に監督さんよろしく毎日のように通った。

建設する前は1階か2階までに留めるはずが、業者の方々の「1度に完成させないと、今度やるときに増築の形になり、防水や水切り関係で二度手間になり、資金負担も倍以上かかる」との忠告に従い、一気に3階まで組立てた。

完成は50年3月11日、私の30才の誕生日に合わせ、永年の念願であった社屋の完成祝賀会が、木の香も馨しい新居で大勢の方に祝福されて行われた。しかし、資金繰りはまだ手付かずのままであった。

後先をあれこれ考えずに目的に向かってひたすら走る、これ即ち若さの特権である。(無謀とも言うが・・・)