自社工場建設

昭和56年7月
36才

人は夢があるから生きられます。夢があるから強くもなれます。
大切なことは他人に敬意を払い、自分に誇りを持って生きることです。

千種の賃貸工場では、少し大きな仕事を受注すると場所が狭いため製作した製品が山積みにされ、作業スペースを確保するために移動が何度も行われ、著しい作業ロスと大型物件の受注が困難を来たしていた。自社の看板の元で誠実に仕事を行い実績を重ねた結果、お客様も随分と増え、仕事の内容も多様化していた。

大家さんはそんな状況を見る度に「お前の処はいつも忙しそうだな」と、毎年一方的に値上げを強制された。設備をしても自社の資産にはならず、忙しくなってきたので溶接機を増やしたら、変電所のトランスが古くオイルが直ぐに沸騰して仕事に差し障りが生じた。大家さんは「お前の処が忙しいからトランスが沸騰するんだ。新しいものを入れ替えるからお金を出せ」と何百万もの見積りを持ってきた。「これはもう次のステップに進む段階だ。此処の賃貸工場はそろそろ潮時だ」との思いを強くした。

まず、自社工場計画は机上の設計から始まった。敷地300坪で建屋100坪を設計した場合の作業効率と資金負担は如何程か、敷地500坪の建屋200坪の場合はどうか等、様々なケースを想定して横田部長に設計してもらっていた。幾通りものパターンを想定して金額を割り出し、毎日夜が白むまで比較検討を繰り返した。

いつも資金繰りや造る苦労は考えずに、完成した様子を想像しては歓び、現実に戻っては落胆の日々であった。

大成鉄工の工場建屋資材を入手してからこの建物復元に適した土地探しが半年余り続いた。

最初は本社所在の鎌ヶ谷市の商工地域や山林等方々を回り、やっと見つけても住居が近くに建っていて、将来住民とのトラブルや立ち退き等の不安材料を残す危惧があり、適当な場所には行き当たらず、鎌ヶ谷市内は諦めた。

その後、沼南地区、八千代地区、市川地区と物色して回ったが、なかなか適当な所がなく毎日憔悴していた。そんな時期に知人から、白井工業団地の近くで不動産屋さんではないが個人で顔の広い方を知っているからと、地元の顔役の方を紹介してくれた。早速、この方と見込みの有りそうな物件を次々に数十ヶ所回ったが、“帯に短し、襷に長し”であった。続いてこの方の知り合いに紹介して貰い、また次の方を紹介して頂く方式でやっと現在の場所を捜し当てた。

その土地は当初、雑木林で道路面より1メートル以上低かったので、同じ高さにまで埋め立てた。残土は増保商店の増保社長と那須設計工務の平山社長の手づるで、解体業者や土木業を営んでいる仲間に声を掛けて頂き、建設現場から出る残土を運んで格安で埋め立てて下さった。

1期工事は一度に無理はせず建屋の半分を復元し、続けて事務所、食堂を建てた。工場建屋は2期工事で大成鉄工からの復元は完了し、3期工事目でその2倍の大きさの建屋に拡張した。その後、4、5、6、7、8、9、10期工事と継続して現在に至った。1、2期の基礎工事、3期建屋工事は上下全てを平山社長に纏めて頂いた。工場が1期目、2期目と建てられ、作業スペースの拡大に伴い、移動ロス解消と待望であった大型物件の製作が可能になった。

本社社屋は、無理な計画に重ね、事務所や社宅・寮のために生産性は上がらず、建設後の会社の資金繰りは不景気と相俟って火の車状態が何年も続いた。銀行返済を最優先に延滞なく履行するためには止む無く、決算上の事業税から個人の源泉徴収税、市民税等に至るまですべて滞った。

新工場建設は、工場設備が充実するごとに対外的なイメージアップが計れ、仕事量の増加とそれに伴い利益率も上がって来た。溜まった税金を減らすために松戸税務署徴収課には毎月欠かさず持参し、鎌ヶ谷市役所からは毎月担当者に徴収に来て頂き、その月に支払える最大限の金額を納め、通常に戻るまで3年の年月を要した。

第1期工事
第2期工事

3期目の増設工事で憧れの的であった旧大成鉄工の工場建屋の2倍以上の大きさに成長した。時の景気上昇に相俟ったが、設備の拡充に伴い生産性が大幅に向上、売上も飛躍的に伸び、適正な利益が保たれ、資金繰りは徐々に改善されて行った。

行き先が定まらず暗中模索を繰り返し、その度に一生懸命に働く仲間を不安にさらした昔、思うにやっと行き先が定まった「レール」が敷設され、目的を持った「レール」の上に乗り、共通意識を持った仲間と新しい時代に夢を馳せて走り出したように思う。