不安を胸に上京

昭和36年3月11日
15才

人間誰でも何度か自分の人生を振り返ることがあります。そしてこの先どうなるかと考えます

農家の仕事は1年中暇なしであった。この当時は電気こそ各家庭で使えていたが、農家の作業全てを支えていたのは人の力と牛馬であった。

ガスの無い時代、ご飯を炊くにも、風呂を沸かすのも、燃料は全てが薪であった。その薪は何キロも離れた険しい坂道を登った山の中の木を切り倒し、その薪を何百回も山から人力で運び、1年分の燃料として家の周りに積んで集めて置くのであった。お金がなくなるとその薪を束ね、お金のある家に売って生活の糧としていた。飲み水、風呂の水、牛や鶏、乳ヤギに飲ませる水などは、何十段も有る石段を下った湧き水の水貯め場から、担い棒の両端にバケツを吊るし、肩に担いで家の水亀に蓄えるのである。子供の力だと1日に15回位の回数を運び、1時間以上を要した。鶏は30羽位飼っていて世話は子供達が行い、生んだ卵は1個8~10円で、卵買のおばさんが来て買い取ってくれた。ヤギや牛の草刈りも学校から帰ったら子供達も手伝っていた。山を開墾して開拓した天まで届きそうな段々畑には、麦や小麦を蒔き、芋を植え、様々な野菜を作り、田圃には稲を植え、畑は1年中休耕する事はなかった。何かを植えつける度に田畑を耕し、肥料を施し、丹精込めて草むしりや手入れを行い、米や麦を収穫しては脱穀、芋は切り乾燥してそれらは農協へ出荷して現金収入とするのだった。しかし、気の遠くなりそうな段々畑の狭い坂道を運ぶ手段は、牛と人力、田畑の耕しも、牛と人力、総て人の力を要し、農家は朝早くから夜遅くまで働き詰めであった。何処の世帯でも子供は5人から9人位は居た。農家の人は体を酷使し続け、都会の人に比較すると10才位老けるのが早かった。

貧乏な家庭で生まれ育った環境では農作業の手伝いが忙しく満足に通えなかった学校、中学生は立派な労働力であった。特に病弱な母を抱えての父の経済的負担は言うに及ばず、農作業のための労働力不足、毎日の子供達の世話、食事の支度と想像に余る苦労の連続であった。

勤め始めの頃は、同期の仲間に負けまいと、仕事を早く覚えるために毎日を無我夢中で働いた。早く一人前になって沢山お金を稼ぎ、父母に一銭でも多く仕送りして、借金を少しでも減らせるようにと…。田舎ものは一年間一生懸命に働いた。ある時、親方や何十年も勤めている先輩達の給料の額を知った。その日から毎晩床に入ると様々なことを考えては、悩み、眠れぬ日が続いた。何十年も勤めた先輩達の話を聞き、このままで年を重ねた自分の将来を想像した。父の借金を考えるとこのまま一生働いても返せる金額には満たない。このままでは、駄目だ!」との結論に達した。

中学卒業では大成できないとの思いから「一念発起」東京の夜間技術学校へ入学願書を送付した。「人生に近道なんか無い!」 新しい技術を取得する路を選んだ私は、お金を節約するために天草には帰らず、迷うことなく夜行列車で独り東京へと向かった。車窓の風景は様々に移り変わって行くが「心ここに非ず」 ただ、これからどうしょうかナー、こうしようかナー、と、何か考えているようで、何にも考え付かず、唯景色は虚ろな視界を流れ去っていくだけだった。夜も9時を過ぎる頃 、彼方に高層ビル群がちらほらと見え始めた。「東京が近い!」だが、頼れる人はなく仕事も決まっていない。今後の運命は全て明日訪れる「夜間技術学校」にあった。

私の取った行動は、行き当たりバッタリの行動先行型であった。「今晩は一体どこに泊まろう…」 15才の少年の心は不安と焦りの気持ちに陥り、頭の中はパニックが走り廻った。

母なる大地、天草の地を夕日が染めていく…楽しかった兄弟達との語らい、いつも私の心を支えてくれた優しい父母の笑顔、遠くなるふるさと、その海山の美しい自然の風景は島を離れている今、胸をえぐられるように懐かしく、愛しさと共に胸にこみあげてくる・・・

親切にして頂いた名古屋の会社を辞め、東京へ行きたいと父に相談した。援助するために就職したはずが、暫くは仕送りもできないが許して欲しいとの願いに、父は語らいの中で「おまえが決めたことだ。自分の考えを貫き通せ。その代わり辛くとも希望だけは捨てるな。いつもおまえのために神様に祈っている」と、己の苦しい胸の内は語らず、反対に励ましてくれた父の思い遣り、私の眠っていた闘志を揺さぶった。

“鶏口なるとも牛後となるなかれ”「よし、これから牛の尻尾より鶏の頭になろう。」と心に誓った。