渡り鳥生活

昭和49年8月
29才

旅に出なさい 旅は全ての出会いに至る扉です

昭和49年8月、酒田ガス現場向けの200KL油タンク新設及び有水ガスホルダー出入管交換工事を日本海ガス工業株式会社より頂いた。治達は別の現場に廻り、平石君達は東京で工場製作に携わっていたので、この現場に来れる人手は誰もいなかった。そこで、やむなく私が1人で現場に乗り込み、現場監督の岡本さん(現、日本海ガス㈱常務取締役)に工事着工の挨拶で事務所を訪れた。

一人で乗り込んできた私を見て、岡本さんは信じられない、と一笑に付した。資材を積んだトラックが到着したので荷下ろしを済ませ、底板を敷き、その日のうちに本溶接も終わらせ、翌日には底板の溶接部の消防検査を受けた。

この日から、松村さん(元大成鉄工に勤務、会社閉鎖のため実家の秋田県仁賀保に戻っていた)を応援に頼んでいたので、自宅から通って来てくれた。松村さんは東京で勤務していた頃は工場専任で、タンクの組立てはもちろん、現場工事も初体験であった。松村さんには吊った側板を捕まえる役目をお願いして、フック付け、仮組立、仮付けと1人で駆け回った。

側板の本溶接は朝の5時から1人で始め、昼は2人で組立て、終わってまた1人で夜の11時まで本溶接を行い、1週間で消防の水張り検査を受検した。出入管工事も同じ要領で行い、2人で工事を終了させた。現場引き上げの挨拶に伺った際、岡本さんは、ただ頭を横に振って呆れ返っていた。

次の日は、鶴岡ガス現場向け200KLタンク工事に着手、このタンクも同様にして2人で完成させた。

同じ構内で継続して建設される2,000M3の有水ホルダーは治達も応援に加わり、地元からは現在も勤務しているとび職の石山芳夫さん他3人を頼んだ。人数が揃っているとそれぞれが分担で仕事をこなし、体は楽で工事の進捗も早かった。

当時は全国の都市ガス会社で有水ガスホルダーの建設が盛んに行われていた。日本海ガス工業でも営業活動を活発に展開し、長谷川寛営業部長(現、代表取締役)には工事の現場説明会や入札等でご一緒させて頂き、随分とお世話になった。

工事現場が全国に広がり、甚だしい時は飛行機に乗って北海道から羽田で「タッチアンドゴー」を行い、九州へ向かった事もあった。それからも仕事を追いかけ、父島、母島、南鳥島等の離島を含め、日本全土を旅して廻った。

建造物に興味があった私は、仕事の合間を縫ってその地域の珍しい建物やお城、教会、寺院等を見学し、その素晴らしい技術と優美さに心を打たれ、眼に写るものすべてに感動を覚えた。また名所旧跡も行った先々で隈なく観て廻り、“百聞は一見に如かず” 本で読んだ歴史的建造物を自分の目で観察、手に触れて確かめ、旅の恵みに感謝した。

反面、否応なく様々な事件事故にも遭遇した。北海道の現場への移動は、中古車販売店で値切って買ったライトバンを平石盛敏君(現工場長)が1人で運転していた。さすが中古車?北海道の山岳道路を夜中に走行中、ファンベルトが切れ、ラジエーターの水が沸騰して立ち往生した。

その地域は凶暴な「月の輪熊」が出没、人的被害が度々発生、地元の人も恐れる場所であった。その時は車の中で朝までまんじりともしないで夜明けを待った。

盛岡から宮古の現場に向かう途中、夜の閉伊街道を通り早池峰山国定公園を通り過ぎる頃、いきなり黒い固まりが猛スピードで私の乗っているタクシーへ一直線に迫ってきたが、幸いに車の方が速く、危うく衝突は逃れた。

正体は“猪突猛進”子供が産まれて気が荒くなっいた猪で、動くものを見ると何であれ習性で見境なく突っ掛かって来たのであった。

昭和41年9月20日(21才)、江別ガス向け1,000M3有水ガスホルダー工事は終盤にさしかかっていた。この当時の一時期、人手が足りなくなると京都で左官職をしている弟達に応援を求めることが何度かあった。このときもやはり左官職をしていた従兄弟を伴って野幌の工事現場に来ていた。

当日、屋根骨を組立て終わったのは日の短い北海道の夜7時、既に暗闇で投光器の明かりが工事用電信柱の上からタンク全体を照らしていた。高いタンクの上から見える札幌すすき野の街明かりは一際明るく光輝いていた。

仕事が一段落して気が緩んだ気持ちで、そのあまりにも素晴らしい夜景を眺めながら、私は9mの高さの水槽ホーム上を投光器の逆光の先にある階段へ向かって歩いて行った。歩きながら闇の中に階段の踏み台が浮かび上がり、確認もしないまま一歩足を踏み出した。アッという間もなく真っ逆さまに奈落の底に引き込まれ、地面に激しく叩きつけられた。降り口と錯覚したのは電信柱の支柱が投光器の陰になってタンクに当たり、幻の階段を作り出していたのである。仰向けに落ち、そのままの状態で手足を触ったが怪我はないように思い、そろそろと体を起こしたが背中に激痛が走り悶えた。うつ伏せで横をみて背筋が凍った。50cm隣はコンクリート造りのピットで、その穴を掘り起こした残土が山盛りになった上に落下したのであった。

私は四つん這いになってなんとか現場ハウスに辿り着き、仰向けになって横たわっていた。タンクの中から出て来た治達はそんな私を見て、疲れて横になっていると思い込み、ふざけて手を引いて起こそうとした。私は痛みに悲鳴を上げ、転落した事を告げたが誰も信じなかった。

結局、救急車を要請して市立病院に向かったが受け入れが出来ず、江別市内の稲垣外科病院に収容され、脊髄の大突起骨折で2ヶ月の入院を余儀なくされた。残りの工事は治が頑張って無事に収めてくれた。

昭和46年3月18日、深川警察署から、お尋ねしたいことがあるので午前10時までに出頭してほしいとハガキが届き、何の事か解らぬままに警察署に行った。初めて入った署内はざわめき、大きな声でのやり取りを伺っていたら緊張感が襲ってきた。

受付にハガキを示すと、担当官が現れて取調室に案内された。担当官はいきなり質問を開始、「北海道に行った事はあるか?何時行ったか?何をしに行ったか?交通手段は?何月何日?何便の青函連絡船に乗ったのは何のためだ?」と、返事を待つ間もなく矢継ぎ早に質問(尋問?)、同じ意味の事を言葉を変えては繰り返し聞いてきた。鈍い私でも何ならかの容疑で呼び出されたのだと理解した。

連絡船に乗船したのは、5,000KLタンク他3基を苫小牧石油基地に建設するために向かう時であった。私が熊本県天草出身と分かった途端、担当部長刑事は「俺も熊本や」と優しい声に変わり「熊本んもんは悪かこっせんな」と、世間話をして解放してくれた。

事件は、連続ピストル射殺事件の容疑者が北海道に渡ったので大掛かりな捜査網を敷き、連絡船の利用客を洗っていたとの事であった。

昭和47年10月、我孫子の6,000M3球形ホルダー現場では通産省の立会耐圧検査も済み、減圧のために圧力をかけたエアーを放出していた。ところが、けたたましい音と共に放出管の根元のバルブが割れ、上部に取り付けている放出管が割れたバルブと一体となって、頂部のホーム回りを見回っていた治の背後から後頭部を直撃した。

瞬間、治は手摺りに激しく叩きつけられ、翻弄されながら一回転して手摺りを乗り越えて飛ばされた。落下寸前に無意識の中で手摺りにぶら下がり、25mの高所からの落下を危機一髪に回避した。かぶっていたヘルメットは破壊され、意識不明のまま我孫子中央病院に収容された。

バルブが破壊されたために6Kもの圧力のエアーが一気に吹き出し、その凄まじい轟音に1km四方の学校、病院等からの緊急の問い合わせが殺到、パトカーがサイレンを鳴らして走り回り、タンクの圧力が下がるまで街全体が騒然とした。

幸いに治の意識はすぐに回復、脳にも異常をきたさず1ヶ月の入院治療で済んだ。しかし、3年間は頭痛や目眩など体の不調が繰り返して起こり、後遺症に悩まされていた。それにしても無意識の内に手摺りに捕まった行為は奇跡的な出来事であった。