賃貸工場時代

昭和51年2月
31才

厳しい所をくぐりぬ抜けると人間強くなり、強くなると人は優しくなると言います

千葉市の千種工業団地内の賃貸工場と契約し、工場製作が始まった。これまでは仕事を追いかけ、あちらこちらの工場を渡り歩き、どんなに頑張って仕事をしても、一生懸命にやればやるほど客先の従業員には疎まれた。更に、たくさんの仕事量をこなそうと対外的には竹森工業の実績とは認められる筈はなかった。

個人として考えれば満足できる実績であるが、理想は会社対会社の取引で組織を拡大させ、大きく飛躍することである。この現状では飛躍する前に戦意喪失で空中分解を招く。仕事を頂くにしてもお客様の工場ではなく、竹森工業の看板のある工場で製作し、ここから出荷して実績を積み重ねなければ発展は望めない。ましてや宿借り生活を余儀なくこのまま続けたならば私のみならず、一緒に頑張って働いている仲間も精神が卑屈になり、優しい心が崩壊するのも時間の問題だった。これは耐えうる限界を超えて来たと、毎日が悩みの中にいた。

そんな時期に大成鉄工の営業部長をやっていた白井正身氏(元弊社取締役営業部長)が、工場を借りてくれる人を探していると耳寄りな情報を寄せてくれたのだ。

工場敷地は約500坪、100坪程の工場建物はA社が借りていた。事務所が3室あったが、1室はA社が、もう1室はB社が、残りの1室は設計屋さんが使っていた。これでは事務所もない状態なので、中古の小さな2階建プレハブを購入、工場突き当たりの隅に建てた。工場と言っても小さな門型クレーンが2基走っているだけで、屋根もない野帳場工場であった。

良否は別として、初めての自社工場看板をプレハブ事務所の入り口に掲げたのである。