無情の雨

昭和52年6月下旬
32才

人には昨日の泪があり、明日への微笑みがあります

学閥ナシ、人脈ナシ、系列ナシ、お金ナシ、名前はあるが殆ど知られていなかった。こんな会社が新規のお客様を獲得するための営業活動は困難を来たした。どなたかの紹介を頂いて訪問する場合は、会うだけは会って下さる。が、紹介者の顔を立てるために、ただ話を聞いて下さるだけの場合が殆どであった。飛び込み(予約なしで初めての会社を訪問する)の場合は会って頂けるだけでも有り難く、話を聞いて下さる確立は極めて稀であった。経歴書や会社案内もなく、組織はあってもなきが如き時代であった。頼りは言葉と真摯な態度で、いかに熱意を伝えるかが大事なポイントであった。

梅雨に入った時期にあるお客様からご紹介して頂き、やっと獲得した大手の会社があった。大手のお客様はまだ工場を見ていないが、私の説明や工事の実績等を聞き、勿論紹介先の信頼があってのことだが仕事を頂いた。まだ取引している鋼材メーカーが無かったので、千種の工場へ材料を支給して頂く条件で契約が成立した。

担当者は「お宅の工場を見せてもらうついでに図面の打ち合わせもやりたい。支給材料が入荷次第に伺う」と日時を決めた。お客様の訪問当日は朝から生憎の大雨であった。

工場は10坪程のトタン屋根を張っただけの側壁も無い、吹きさらしの建て物だった。然るに工場でありながらも雨の日は休みであった。昼頃に大雨の中をお客様が到着された。私は内心「これは嫌な日に来て下さったな」と案じつつ傘を持ってお迎えに行った。顧客を伴ったお客様の表情は東京の会社でお会いした時とは全く別人に変身していた。顔は引き攣り、手は小刻みに震えていた。

翌日、大型トラック2台が差し向けられ、支給された材料が跡形もなくなったのは言うまでもない事である。

屋根ナシ工場でも、自社看板を立てた効果が実績と共に少しずつ現れてきた。新しいお客様も工場を訪問して下さる機会が増えてきた。材料引き上げ事件は口コミで他のお客様方に知れるところとなり、営業や打ち合わせに行っても話題の大半はこのことに割かれ、話は大いに(?)盛り上がった。

その余韻がまだ覚めやらぬ頃、米軍基地向けタンクの仕事が決まり、基地の将校さん方数人が打ち合わせで工場を訪れてくれた。アメリカ人の軍人さんはとても陽気でペラペラと早口で英語をまくしたてて話をしていた。私達を笑わそうとその大きな体で身振り手振りのジェスチャーを交え、ジョークを連発、私達は通訳を通じての対話にワンテンポ遅れて笑うが、その歓ぶ様子を見て、また大きな声で大袈裟に2度笑いを繰り返していた。

工事実績表や会社案内はなかったが、工事実績写真の厚いアルバムを見せた。完成工事が多いのを見て、工場はオンボロだが技術は素晴らしいと褒めてくれた。追加式の写真帳であったが最後のページが一枚空いているのを見た将校さんは「このページは何で空いているのか?」と質問して来た。私はすかさず「貴方がたの工事完成写真を載せるために残している」と答えたら「オー、イエスイエス」と満足そうに膝を叩いて大笑いした。

この工事が無事に終わり、直ぐに続けて米軍基地の仕事を頂いた。“捨てる神あれば拾う神あり”であった。