金の卵時代
子供は父の背中を見て育つと言います。父親の背中には故郷の川のような穏やかさがあります
みんないつかその想い出の川に帰ります
その日、名古屋へ向かう汽車の中はデッキから通路まで若者達がひしめき合い、混雑の極みであった。幼い頃、友達と縄を丸い輪にして腰に巻き「シュッシュッポッポ・キシャポッポ」と、機関車をまねて走り回ったかすかな記憶と、絵本や写真で見た憧れの汽車に乗っての旅路である。幸い私は早くから来て整理券を貰い、座席を確保していたので安心だった。乗客は中学を卒業して愛知県内の会社へ就職する少年達、汽車は名古屋行きの専用列車だった。
当時の流行語に中学卒業と同時に就職する少年達を「金の卵」と持て囃し、その少年達を運ぶ汽車を「集団就職列車」と称し、団塊世代の子供達が社会に根づき始めた頃であった。汽車が「ボーッ」と鋭い汽笛を鳴らし、「ガタン」と動き始めた。思わず、これから歩む人生の旅路を思い、身震いするほどの快い緊張感に襲われた。
そして少年達の夢と希望をいっぱい乗せ、力強い煙を吐き続けながら、時折「ピュー」と郷里に別れを惜しむような悲しい汽笛を残し、一路名古屋へと向かった。途中トンネルを通過する際に何度も窓を閉めるタイミングが遅れ、名古屋へ着く頃には汽車の吐く煙で顔からワイシャツまで真っ黒になっていた。
駅には会社の人が迎えに来てくれ、一緒の汽車に、鹿児島、長崎、熊本、大分出身の8人もの同僚がいたと知り、とても心強かった。会社に着くと夜の9時を過ぎていたが、従業員の皆さんはまだ大勢の人が仕事をしていた。8人の仲間の4人は機械工場の2階にある部屋へ、私達4人は薄暗い工場の中を通り、仕事場奥の部屋へと案内された。障子1枚で隔てられた12畳の部屋は作業場そのままの騒音が行き交っていた。この部屋に先輩を含めて10人で寝るという引率者の言葉に、みな無言で頷き、疲れた顔で荷物を押入れにしまった。担当の方から「明日から仕事をしてもらうから」との説明に、誰からともなく騒音のする方向へ歩いて行った。
500坪程の工場は組立工場、機械工場、鉄板の切断・溶接工場となっていた。作業場ではこれからお世話になるであろう先輩たちが、裸電球の下でヤスリをかけ、装置を組み立て、油で真っ黒になって機械加工の仕事をしていた。薄暗い工場の片隅では、稲妻みたいな光を発し「バチバチ」と大きな音を立てながら電気溶接が行われていた。圧巻は30ミリはあるであろう鉄板を、辺り一面に真っ赤な火の粉を撒き散らしながらの切断作業であった。「ようし俺にもやれるぞ!」明日からの新しい職場での生活を思い、私は思わず大きな武者震いをした。「貧乏な暮らしで培われた根性と忍耐強さは誰にも負けないぞ!」全身に力がみなぎってくるのを覚えた。
合資会社光製作所は、トヨタ自動車の下請け協力会社で、新しい車種を組み立てるラインの台車装置を元町工場へ納入していた。黒光社長は広島出身、小太りの大福様みたいな温厚な方であった。大の中日ファンの社長に頼みごとをする場合、中日が負けたときはご法度、間違っても目を合わせない方が幸せであった。管理職には個性的な性格のご子息3人を、長男から専務、常務、総務部長として起用していた。
私が最初に配属された部所は装置組立工場だった。車を組み立てる際に板金部品を抑えるクランプの当たり面を、ヤスリをかけたり、機械定盤を「キサゲ」でミクロに仕上げ、ボール盤で鉄板に孔明けして装置を組み立てるものだった。最初はヤスリをかけても仕上げ表面はデコボコ、力任せにかけると手の平はたちまち豆でデコボコになった。
光製作所に就職して半年が経った頃、一緒に入社した8人の同僚は3人になっていた。毎晩8~9時までの残業と連日の過酷な労働を強いられながら月に1度の休日しかなかった。親の温かい庇護下で育った環境と大きな夢を持って就職した職場のギャップはあまりにも大きく、遊び盛りの夢多き15才の少年たちは将来の希望を見失い、絶望の淵でもがき苦しんだ。多くの若者は父母への思慕とふるさとへの望郷の念は断ち切れず去っていったのだった。
最初は名古屋弁の独特の言葉使いに、先輩からの仕事の指示や対話は、殆んどが意味不明で戸惑うことばかりだった。それでも職場には九州出身の先輩方も多く勤めおり、優しい先輩に仕事のやり方や他の人の性格、名古屋弁など親切に教えて頂き、お陰様で言葉の壁も少しづつ克服していった。知多半島から通っていた私の所属班の斉藤親方は、仕事をしながら天草の話や故郷の家族のことをよく尋ねられた。私は貧しいながらも父母・姉弟達と家族が一緒に暮らせて幸せだった様子や、食べるものも儘(まま)ならなかった天草での生活に比べ、ここでの仕事は農作業より遥かに楽で辛いと思ったことは一度もなく、「毎日お米のご飯が腹一杯に食べられ、しかも働いた分だけ給料が貰え、お陰様で毎日楽しく働かせて貰っています。」等、取り留めなく同じようなことを毎回も話した。斉藤親方は私の話に耳を傾けながら、時折「オ~イ、泣かすなよ~ナー、竹森」と照れながら、その都度、腰にぶら下げた手ぬぐいを目に当てた。聞き終わると「オ~イ竹森、しっかりしろよ!負けるなよ。がんばれよ~!」といつも励ましてくれた。(雨の日などにボール盤で穴あけをする時は、壁に向かって作業をしていた。植え込みの木々の葉っぱに当った雨の雫がリズミカルに窓辺のガラスを打ち鳴らす様子を眺めていると、妙に郷愁を誘い、母の憂いに満ちた優しい微笑みが現れ、最後は屋外の雨と涙が交互に落ちるリズムの合唱であった。斉藤親方は私のうしろ姿で様子察知してくれたのか、そんな時は必ず話しかけてくれた。)
ある時、知多半島に住む斉藤さんが、ご近所の方々へ私の田舎の家族の事をことを話したところ「今時、そんな貧乏生活、何とかしてあげなくては!」と、みなさんがそれぞれ物を持ち寄って下さり、子供の着物やお菓子、本等沢山の物資を大きなダンボール箱3個に詰め、天草の父母の元へと送って下さった。見も知らぬ私達家族にこれほどまでにして頂き、その優しい思い遣りに唯、ただ、斉藤さんと皆様に感謝するのみであった。-合唱-
黒光社長は一日に何回も工場の中を巡回して見回りを行っていた。近くに来ると必ず私の仕事をしている様子を見ながら手取り足取り指導をして下さり、仕事の心構えや「不良になるなよ」と、若い時期の規則正しい生活の大切さを教えて頂いた。何ヶ月か過ぎた頃、社長から、「毎日寮のご飯だけだと飽きるだろう。たまには美味しいもの食べさせてあげるよ」と言われた。そこは熱田神宮傍の立派なレストランの個室で、松坂牛をご馳走してくれるという。「生まれて初めて見るその分厚いステーキ、食べてみてその美味しさに胃の中はトロけ、思わず「田舎の母ちゃんにこれを食べさせたら元気になるかもしれない」と、本気で思った。これが名古屋で初めてて゛最後のご馳走であった。
その後、私は工場内の家に住む社長の隣の部屋に移され、職場も資材部に変わった。
ある日、機械加工する鉄板に罫書き針を使って寸法を刻み、カーバイトガスを使って切断していた。切断中に熔鉄がはじけて「切断バーナー」の火口に当たって火が消えた。と、思った。しかし、切断器は「シューシュー」と異常な音を発し続けていた。まだ技術が未熟なためにすぐ調節レバーを閉められず、火は切断器からガスホースを伝ってガス発生装置のタンク内に逆火、その瞬間、大音響とともにタンクの上蓋が屋根を突き破って舞い上がった。一瞬何が起きたのか理解できなかった。大きな音を聞いた途端に腰がヌケタ・・・その状況のあまりの凄まじさに恐怖で顔は引きつり、体の震えが暫く止まらなかった。(後に先輩から「逆火したら安全のために上蓋が飛ぶようになっているんだ。新米の時はみんな何回か経験しているよ」と聞き、気持ちが少し楽になった。)
この頃はパイプや薄物はガス熔接が主力だったので、時々ガス熔接もやらされた。始めはパンパンは撥ねてばかりでうまくできなかったが、1週間位いでなんとか綺麗に付くようになり、ガス熔接をやるのが楽しくなった。同時にバイトのロウ突け肉盛り方法も指導された。次は「電気溶接もやってみなさい」と、溶接班から呼ばれた。鉄板を複雑に組み立てた装置物で板厚が50mmもあり、溶接棒も径が8mmもある大きな棒を使用して行っていた。この時代の被覆材はすぐに割れて棒から剥離、電気溶接技術は年期を重ねた熟練が必要であった。
会社の先輩達は、トヨタ本町工場へラインの変更・改造・修理などの営繕工事に毎晩、何人か交代で通っていた。(生産ラインを止められないために、夜中と休日だけの工事であった。) ある日、「オーイ、竹森、今晩はお前が来い。」と、一方的車に乗せられた。南区の会社から元町工場迄は40分で着いた。「着いて、先ず、ビックリ」。広大な敷地に綺麗に植え込まれた木々、軒を連ねる工場群、何処までも並んで続く生産ライン、見る物全てが桁外れの規模の大きさ、目を見張った。 夜中の12時に作業は終わったが、この日を境に毎日引っ張り出された。昼間は工場で働き、五時を過ぎると、元町工場へ、日曜・祭日は終日に亘りった。毎月の残業時間は、150時間、月給4500円、残業・休日出勤手当てが6000円にもなり、天草の両親に全額を送った。父母は、私の初給料を受け取った日から送られた現金封筒を毎回神棚に上げ、「要から貰った有難い、大切なお金です。」と、必ず神様に感謝のお祈りを捧げたと云う。(それは、兄弟達が働きに出て、子供から仕送りを受ける度に、生涯変わることなく続き、子供達にも感謝の心を伝える思いやり溢れる父母であった)
※ (名古屋の光製作所での経験が自分の将来の指針になるとは夢想だにしなかったものである。黒光社長様に感謝・合唱)
※ 名古屋に就職したのは、超大型の伊勢湾台風が名古屋を襲い、5,000人以上もの死者、行方不明者を出した翌年で、その痛ましい爪痕がまだ至る所に残っていた頃であった。