忍耐の日々

昭和55年5月
35才

人は誰でも道に迷い、傷つき、悩み、絶望の淵からやがて立ち直り成長していくものです

大成鉄工の建屋解体工事に着手、これをきっかけに悪夢のような出来事が次々に襲ってきた。

解体工事が始まって1週間、夜10時過ぎに電話が鳴った。相手は東京の組のものだと名乗った。名前を言えば大抵の人が知っている、大きな組織だった。用件は「自分達の組の縄張り内で挨拶もなく工事をやっている。しかもお前は、弟の舎弟が工事を受けるはずだったものを横取りした不届き者だ、落とし前として100万円を支払え」と威嚇してきた。「私は正当な商取引で工事を行っているのでお断り致します」とキッパリ拒否した。

相手は10日間、毎日のようにあの手この手で脅かし、ついには「月夜の晩ばかりではないぞ」と最後の手段の暴力を訴えてきた。こちらも絶対に負けるものかと拒否を続けたため相手は根負けして諦めてくれた。同じような電話が別の組を名乗る男からもかかって来たが、最後まで無視を決め込んだ。

解体工事も基礎だけになったある日、一通の手紙が届いた。解体現場の向かいに住んでいる奥さんからだった。私はすぐに手紙の差出人の自宅を訪問した。要約すると「飼っている手乗り文鳥はNHKテレビからも出演の依頼が来るほどの利口な鳥だったが、言葉を喋らなくなった。原因はお宅の工事の騒音の影響だ。訴訟を起こして損害賠償を要求する」旨のことであった。「元通りに鳴くようにしてくれ」と食い下がられ、「無理です」と拒否すると、「出来なければ50万円の賠償金で勘弁してやる」と、母娘に捕まり交互にネチネチ3時間も文句を食らった。

翌日から毎日数時間も現場に現れ、工事をストップしろ、音をたてるなと揉めること10日間、堪らず近所の人達にこの鳥のことを聞きまわり、調査の結果、最初からあんまり鳴かなかった事が判明、文鳥事件も一件落着した。

いろいろあった解体工事が無事終わって1ヶ月が過ぎた。やっと平常心を取り戻し仕事に専念していたある日、関東財務局から呼び出しを受けた。何事かと仰天したが、事情が解りさらにびっくりした。

船橋の解体業者が、住んでいる近くに広い空き地があるからと、解体した建屋の資材を大型トラック20台分運んで置いていた場所が、まさか国有地だとは・・・。この業者には場所代として1ヶ月に15万円も支払っていたのである。

さて、今度はどこに運ぶか。工場を建てるには期が熟していない。1年以上預けられる所を探さなければ・・・。八方に手を尽くして探していたら、知人が「白井の雑草地に空いている場所がある」と地主さんを紹介してくれた。「今のところ使用する予定はないから1年でも2年でも結構」と賃料15万円で話がまとまり安堵した。

そして、そこへ資材を運び、大型トラック20台目の最後の荷下ろしにとりかかった時、赤灯を回転させながら保安協会の車が近づいて来て「即刻作業を中止しなさい」と強権発動をかけてきた。何のことか理解出来ないままに作業を中止した。説明を聞いて冷や汗をかいた。

高圧送電線の下とは理解していたが、まさか何十万ボルトもの送電線とは・・・。「電気保安法によりこの下では重機の使用は禁止されている。即刻撤去しなさい」と厳しく咎められた。翌日、東京電力に呼ばれ、説教をたっぷり聞かされた上に顛末書まで書かされた。

次の場所探しがまだ残っているのに・・・。胸が痛む。工場建設資材は又もや流浪の旅を余儀なくされた。

このような状況に皆の見方は、これから更に資材を別の場所に移し変え賃料も支払わなければならないのだから、資材はスクラップ処理して売り、工場を建てる場所が決まってから新しく作り直した方が得策だとの意見が大勢を占めた。

しかし、善意の方々に助けられ、苦労惨憺してやっと手に入れた資材は、私の理想の工場像だ。この建屋に適した広さの敷地を確保しなければ絶対に夢は適えられまい。もしスクラップにしてしまったら、資金に合わせた工場作りはどんどん縮小され、理想の工場復元を目指すものとは程遠いものになってしまう。

その晩、なかなか思うに適わぬ夢に、人知れず独り泣くだけ泣き、泣き疲れて眠りについた。

翌朝「腹立ち紛れに決断は下すな。冷静さが必要だ」と自身に言い聞かせた。「根気強さは誰にも負けないぞ。ネバー・ギブ・アップだ!」と胸の奥で叫んだ。

3ヵ月が経過して、今度は千葉県環境課から呼び出しがあった。大成鉄工を解体した時に発生した大量のゴミを山中に不法投棄しているとのことだった。ゴミの中の書類で大成鉄工の名前が出て調査の結果、解体業者が竹森工業と判明したので連絡したとのこと。

「早急に撤去して現状復帰しなさい」とお叱りを受け、始末書を提出した。産業廃棄物処理費まで支払って工事をやらせた船橋の業者、何処まで祟るか・・・