夢の工場の救い主

昭和55年6月
35才

希望がなければ耐えては行けません。行く道もみつかりません。

工場解体を船橋の業者に頼んだのは大失敗であった。大成鉄工は建物が大きく機械工場も営んでいたので、当時は大変貴重で高価な砲金や銅線類が沢山あった。業者はそれらを許可なくトラックに積み込んでは売り捌き、職人らは休みが多くて作業はなかなか進行しなかった。しかも解体技術が未熟なため、切断口はまるでスクラップ材、後で復元できるような代物ではなかった。

そんな時、東社長が「工事の様子を知りたくて」と現場を見に来られた。東社長はさすがにプロである。その様子を一目見て「竹森さん、この解体業者では建屋の資材は製品として使えませんよ」と、未熟な技術を看破した。私も「この調子で行けば工期の遅延は避けられず、又、移設して復元するのも苦労するので社員を投入しようと準備している」旨を説明した。東社長は職人の仕事振りを見て「これではあなたは大損してしまう。私の知り合いに立派な人物で解体の名人がいるから紹介してあげます」と親切にその方を現場へ呼んで下さった。

増保組の増保初男社長は温厚な方で、その柔らかい眼差しで私の事情説明に聞き入り、現状の様子に「これはダメだ、あれじゃいけない」と、我が事のように心配してくださった。人のやりかけの仕事でしかも格下の業者の下請けでとの依頼にも拘わらず「喜んでお手伝いしましょう」と快く引き受けて下さった。

次の日から、復元するときに必要な合いマークをした方が良いとの助言で、建築の経験のある仲井さん達も応援に回し、腕の良い働き者の職人と近代的な数種類の重機械を投入、丁寧に扱いながら今までの数倍の速さで工事を進めてくれた。基礎の解体と整地も綺麗に仕上げて戴き、納期も間に合わせて下さった。

この時に若し増保社長と出会ってなければ今の我が社の工場の建物は幻となって消えていた可能性が大であった。これを機会に増保社長には色々な工事を依頼、その卓越した技術力を駆使して、どの現場も見事に完了させてくれた。

晩年に塵肺に犯されながらも生涯現役を貫き、最後となった現場にも奥様が車椅子を押し、酸素ボンベ片手に職人を指示、亡くなる直前まで来てくださった。

平成9年8月3日(享年79歳)、奇しくも誕生日のその日、優しい奥様に看取られ、眠るが如くに天国に旅立たれた。この17年間、増保初男社長は我が子に向ける慈愛の眼差しでいつも語られ、無理なお願いも親身になって相談に応じて下さった。 -感謝- -合掌-