運命の出会い

昭和38年11月5日
18才

若い時は何でも経験です 失敗は成功の基(母)です
失敗なんか恐れず幾らでもすればいいのです そのかわり何事も一生懸命にやることです

「長野県松本市の松本ガスに建設する、5,000m3有水式ガスホルダー現場に、溶接工がいないので2ヶ月位手伝ってくれないか。」と、この前の仲介業者とは別の方から依頼があった。これから本格的に寒さが厳しさを増す時期の松本地方一瞬躊躇したが次の仕事がまだ決まってはいなかったので承諾した。

11月5日、朝一番の汽車で東京を発ち、午後3時頃に依頼された松本ガス工事現場に着いた。北アルプスから吹き降ろす風が冷んやりと肌寒かった。現場では5人の職人が、タンクの底板になる鉄板をウインチのワイヤーを使って基礎の上に引き込み配列していた。先ず、これからお世話になる、高橋喜美治親方と鍛冶職人に挨拶を交わし、早速に溶接機を段取して溶接作業に取り掛かった。タンクの組み立て方法は、通常は重機(レッカー車)を使用して施工するのだが、場所が狭くて重機が使用出来ないためにタンクの底板上に旋回する架台を組み立て、この上に高さ35mのタワーを立て、架台の上にウインチを設置、重機の代わりに旋回式デレッキを段取りした。これをウインチで操作しながら、トラックからの荷降ろしとタンク円周に資材の配置を行い、側板1段毎に1枚1枚の鉄板を取り付け、側板が最上段迄終わると、次は、柱を2段階に分けて組み立て行く工程であった。タンクの直径は21m水槽側板トップの高さ9m、水槽の内部にはガス外槽と内槽を設け、内槽に屋根板を取り付け、基柱トップ迄の高さは32m使用鋼材重量は258tonであった。良い天気が続き、15日程で側板の組立てが終わった。親方から「明日から柱を立てるのだが、人手が足りない。電気屋さんも柱を立てる時にトラロープの引っ張り方を手伝ってくれないか?」と頼まれた。柱やガーターをどうやって組み立てるのか非常に興味を持っていたので私は、「喜んでお手伝いさせて頂きます」と答えた(当時の溶接工は電気屋さんと呼ばれ、鍛冶屋や鳶の仕事には殆ど手出しはせず、給与や待遇は特別扱いであった。)

しかし、翌日になっても中々柱を立てる気配がなかったので不思議に思い親方に尋ねた。すると親方は「実は今日来るはずの鳶職が急病でこれなくなってしまい、とても困っているんだよ。」と困惑した表情で語った。天草での少年時代、山の頂上から麓まで、高さ15mの木の天辺に登り、木を大きく揺らしながら一度も降りることなく枝から枝へ伝い渡るのが得意だった私は、躊躇なく「私が昇りましょうか?」と提案した。親方は「君では無理だよ~。」と、にべもなく断られた。私は田舎の出来事を話し「遊んでいてもしょうがないし、大丈夫だと思いますから試しにやってみましょう。」と、再度説得した。親方は「木の上と柱は全然違うんだよ~!。」と、あがらった。暫くしてワラにも縋る思いの親方は、首をかしげながら「じゃあ頼もうか・・・??」 こうして柱の組立作業が開始された。初めての経験、親方の言ってた、木の上と鉄骨の上はまるで違う世界であった。木の上からは枝に支えられた葉っぱの茂みで目隠しされていて地表は殆ど見えなかったのだ!。ここの鉄骨の上から下を見ると何も覆うものが無くストレートに地表で木の高さより高かった。相方は、天草の牛深市から働きに来ていた、田上さんに柱の登り、下り方やボルトの取り付けの際の体勢作り、高いところから下のウインチの操作員やロープを引いている作業員に対する指示サインの出し方等を細かく教わり、四苦八苦しながらも何とか2日間で下部の柱立て作業は終わった。だが、上部の建て方が始まると、最上部の三角ガーター迄の高さは32mもあり、足はすくみ恐怖で体が震えてしまった。昇降する足場はなく、H鋼の両型に地下足袋の両足指で挟んで体重を支え、腕の力だけで上まで登り、順々に中段ホーム、ブレス、三角ガーターを取り付ける際は両腕をフリーにして、両足首をH鋼へ直に絡めて体を支え、ボルトの取り付けが終わると下部のホーム迄ズルズルと下り、また登りの繰り返しが続いた。この仕事は想像を絶する重労働で手足はガクガク、体の至る所がきしみ、寝返りをうつにもスローモーションであった。

11月23日、慣れない仕事で体は異常に疲れているのに寝付きが悪かった。その晩、父の母「キヨノ」婆ちゃんが夢枕に現れ、一面の花畑の中に満面の笑みで座って居た。日頃からニコニコ笑顔の優しいお婆ちゃんが、優しい笑顔で語りかけてくれたのだ。「要~よ~い。元気か~い。仕事は慣れたか~い。辛くとも頑張るんだよ~。要が一人前になって帰ってくるのを楽しみにしているからね~。」3年8ヶ月ぶりの楽しい語らいだった。朝の目覚めはすこぶる快調であった。午前10時、現場仕事の休憩時間に、会社の方から、父からの電報を頂いた。「午後11時30分、キヨノ死す」であった。死ぬ間際まで孫達に愛情を与え続けた優しいお婆ちゃんであった。「優しさを一杯にありがとう。どうぞ、天国の神様の御許で安らかにお憩いください。」

そんなこんなあったがこの頃にはみんなにしっかり頼りにされ、途中で何度も「参った。」と口から漏れそうな言葉を飲み込んだ。こうして最上部の取り付け作業もどうにか4日目で無事に終った。親方や仲間に大変感謝され、降りて来たときには仲間みんなの拍手で迎えられた。

この数日間、恰幅がよくて目鼻立ちの整った白系ロシア風体の白髪の紳士が現場に来ていた。姿を見せると高橋親方に何か指示をしながら談笑をしていた。その方が私の傍に寄ってきて、「なんだ君は鍛冶屋も出来るのか?柱立てを手伝ってくれたそうで助かったよ。」と、労いの言葉をかけながら近寄って来た。この時に初めてガスタンク工事を請け負っていた、東京月島の矢幅工業所の矢幅將夫代表との運命的な出会いがあったのである。

12月になると松本地方は、雪は少ないものの霜柱が10~15cmにもなり、北風が「ヒューヒュー」吹き荒れて毎日がとても冷え込み、体を刺すような寒さに手足はかじかんで野帳場(現場)での作業は厳しいものだった。しかし、この現場では溶接だけでなく、今迄に経験したことのない貴重な体験を様々させて頂き、非常に充実した気持ちで12月27日に東京へ戻った。

この頃、両国緑3丁目の杉目溶接工業の西村さんの住むアパートの空き部屋を紹介して頂き、亀戸から引っ越して来ていた。前の下宿屋さんは朝夕の食事が有りとても助かっていたのだが、ベニヤ板1枚で仕切りられた隣の住人は、朝は早朝から、夜は夜中迄でお線香を焚きながら大声でお務めの読経を繰り返し、自分の部屋の雰囲気は保てなかった。今回のアパートは、バタヤ部落のバラック長屋の隣に建つ木造2階建て、部屋は3畳1間に押入れの代わりに布団を載せる棚が1段あるだけだった。隣の部屋との仕切りは土壁だったが、炊事場、洗面所、便所も共同で使用し、ガスも引かれて無いので朝は戦場であった。入居者10所帯のご飯の支度は各家庭に一つの七輪の炭をを一斉に起こし、それでご飯を炊き、おかずや味噌汁も作るのでご飯を食べられるまでには長い時間を要した。

私は朝起きるとすぐに3畳間で電気ポットに水を入れてセットし、レコードプレーヤーのスイッチを入れて『誰か故郷を想わざる』が流れると1階へ行き、共同炊事場で顔を洗って2階の部屋に戻る頃にはお湯は音を立てて沸騰していた。インスタント麺のはしりの“明星即席ラーメン”を丼ぶりに入れ、お湯を注いで蓋を乗せ、着替えが終わる頃にちょうど食べ頃になっていた。 『目ン無い千鳥』を聴きながらラーメンを啜り、LP盤の最後の曲『湯の町エレジー』が終わると出勤、の習慣になっていた。昼と夜は定食屋さんの陳列棚に置かれている、何十種類かの好みのおかずを日替わりにして食べていた。

松本から帰って数日後、矢幅さんより会いたいとの申し入れがあり、早速午後2時の指定された時間に月島の自宅を訪問した。私は松本の現場でお世話になったお礼を丁重に申し上げた。矢幅さんは「矢幅工業所は個人企業ではあるが、お客様数社との窓口を持っており、仕事は沢山たくさんある。現在、2班の組6人が専属で働いているが人手が足りない。今後は溶接だけでなく鍛冶屋の仕事も手伝ってくれないか!。」と真剣に頼まれた。

このところ「電気屋として野帳場廻りの「一匹狼の旅烏」も気楽で良いが、所詮は人に使われて終わる一生か…」 これで良いのか?… 疑問を抱いていた時期であった。ふるさとを出る時の希望であった「一旗上げずに何でふるさとへ帰られよう。」自分で会社を興し人を動かしてやるには電気屋1本では叶えられない、何か物を作る総合技術を取得しなければと、毎日漠然とだが考えていた。今回、溶接以外のタンク組み立ての手伝いをする中で、今までに無く体を酷使しての仕事に苦痛は感じたものの、自分で組み立てたものが形を成して行く過程の充実感は何者にも代えがたいものだった。ましてガス供給の源として何十年も社会に貢献する施設と思うにつけ、これほど夢を感じられる仕事があるとは、この体験はこれからの新しい目標を強烈な印象として与えてくれた。矢幅さんからの申し入れを二つ返事で承諾した。さりとて、素人がすぐにやれるほど鍛冶屋の仕事が甘くないことも承知していた。引き受ける条件として、溶接をやりながら鍛冶屋の仕事を指導して頂き、始めは応援として協力を約束した。

矢幅さんは、タンクのトップメーカー石井鉄工所の出身で、タンクの設計図もご自分で引かれ、ソロバンは段持ち、3桁の計算は指先を動かしながら暗算でこなし、記憶力抜群、仕事の能力は万能で、趣味は刀剣に始まり合気道、詩吟、美人画、囲碁2段等十指に余る多彩な技は全てが極めつきであった。仕事をさせて頂くようになって聞いた人々の評価は、その仕事に対する厳しさに「矢幅さんは仕事の鬼だ!」と称されていた。

矢幅工業所の高橋班を手伝いながら、タンクだけでなく日産自動車の座間工場や追浜工場の塗装ブース等、図面を読みながら製品を作る。今までに経験したことのない製缶分野で本格的な修行が始まった。

父は語っていた。「どんなに素晴らしい考えを持っていても行動に移ってこそ実現するものだ。」と。