独立

昭和39年10月
19才

何事も争わず足るを知り、調和することです
調和は人間が持っている一番平和な心です

矢幅工業所でお世話になって、自分達で工場製作をし、現場組立も行なう、これが一貫業務の奔りであった。幾つかの現場工事を同じようなパターンでこなし、どうにか鍛冶屋にも慣れ「目指す仕事の業務形態はこれだ!」と考えるようになった頃に仕事が途絶えた。

折角これから製缶業で身を立てようと決心していた矢先であった。遊んでいるわけにも行かず、これまでに知り合った中で一番気が許せる友人(東北出身の21才と23才)と私の3人で組み、共同経営を始める事になった。条件として、仕事は私ともう1人の営業で受注するが、電気溶接も鍛冶屋も同じに出来る3人の立場を互いに尊重して身分は全く対等とし、儲け分も3等分の約束でスタート、最初は川崎港現場で他の組の応援でタンクの溶接仕事を請け負った。二つ目の仕事は砂町の仲介業者から依頼された、京浜地区向けの50KL、30KL、20KLタンクの建設工事であった。3人とも鍛冶屋、鳶職、電気屋等マルチにこなせるので組み立て全てを請け負った。予想以上に儲かった。三つ目の仕事はもう一人の相棒が100KLKタンクの仕事を受注し、お互いに手分けして夢中で働き、結果順調に利益も上がって約束どおり儲けは3等分で分配した。好事魔多し、四つ目の仕事から歯車が狂った。相方が「俺がいい仕事を探して来たから君の仕事より利益率が良かった。然るにその分は私が余分に取る権利がある」と理不尽な要求を強要してきた。協調性より個人の欲望を全面に打ち出してきた。当然残りの2人には納得できるはずもなく3人で話し合いの結果、これ以上一緒にやっていくのは無理だとの結論に達し、どんぐりの背比べ3人の共同経営は4ヶ月で脆くも破綻した。

鍛冶屋の夢を諦めて個人の溶接業に戻れば仕事は得られるが、ここで現実から逃げるわけにはいかない。疲れた心でアパートの部屋に戻ったが良い考えは浮かばず、何の目的も宛てもないままに、いつしか足は上野駅に向かっていた。駅では行き先は決めず、敢えて厳寒の北陸行きの列車に飛び乗り、宛てどない旅立ちをした。

いつも汽車の旅は座席よりデッキの上に立ち、外の風を体一杯に受けながら景色を眺めるのが好きだった。建物や町並みが次々に目の前を通り過ぎ、移り変わる風景を観ていると未来の世界を超スピードで駆け抜けているような満足感が得られた。北陸の荒々しい波しぶきが今にも襲いかかって列車を一呑みにしそうな勢いと、腹の底に響く強靭な営みを飽きることなく繰り返す姿を見ていると勇気が湧いてきた。自分の目標をしっかり定め、何度でも繰り返し向かえば、必ず自分の目的地に着けるのではないかと思えるようになってきた。

誰かと一緒にやろうとするから妥協を強いられ、心ならずも妥協しようとするから悩み疲れて人間不信に陥る。だったら自分がリーダーになれば夢も希望も大きく持てるし、緊張感が生じて辛さも緩むのではないか。自分のために一生懸命に働くのであればこれほど良い解決策はない。早速東京に戻り竹森組を組織することを宣言して独立した。

独立宣言してから又、矢幅工業所にお世話になって北海道や関東等で300KL、500KL, 1,000KLの石油タンクを1基づつ完成させた。

独立後初の大工事は塩釜の油槽所新設工事で500KL、800KL、1,000KL、1,500KL、2,000KLと大型タンクを16基請け負った。まだ「竹森組」の人間は少なく、東京から5人の職人を連れて現場に乗り込んだ。場所が極端に狭くてレッカー車が使用できず、旋回式のデリックを段取して組立てることになった。このため人手が足りず、地元の東北造船所に出入りしている溶接工や鍛冶屋、とび職等13人を頼んだ。工事は紆余曲折ありながら半年がかりでなんとか完成出来た。しかし、職人は私より先輩や父以上の年輩者ばかり、しかも、無理をお願いして来てもらっていた。現場職人の常、今日は資材の引き込みが終わったから飲み会だ、やれ今日は段取が終わったから飲ませろ、と、何かにつけて毎日のように飲み食いを要求された。高給を払った上に余分な経費が嵩み、結局、半年間の請負工事の収支は限りなくゼロに近かった。これに懲りて若い子の募集を開始した。