大家さんの面接

昭和43年3月
23才

先人を尊び、恩人には感謝の心を忘れないことです

猿江に住んでいる頃、まだ社宅などない時代に若者が8名いた。何処のアパートの大家さんも18歳未満の若者だけの入居は特に敬遠された。この時代のアパートには風呂も無く毎日銭湯通い、トイレも炊事場も共同だか、ガスは各自割り当てのガスコンロ1台が備えらていた。その1台のコンロで8人分の食事を作るのだが、工場製作の仕事の場合、昼食は弁当が有るので助かったが、通いの現場工事の時は弁当をこさえて仕事に向かい、仕事が終わって帰りがけに買出しをして食事を作り、全員が食卓に付けるのは8時を過ぎ、食後の片付けは当番制だった。

天草から若者(15才)2名が中学卒業と同時に就職して来た。みんなと一緒の部屋は狭くて住めないので近場の下宿屋さんを探して廻った。何軒目かの下宿屋さんで4,5半の部屋が一つ空いているとの情報を頂いた。早速、「天草から若者が来るので部屋を貸してください。食事は私の所で食べさせます。」とお願い申し上げた。大家さんは「若い男の子ばかりだと部屋を汚すから貸せないよ。」と、一言で断られた。こちらとしては由々しき問題であった。「九州の田舎育ちの素直な子供達なので、是非一目見て頂けましたらきっと気に入って(?)もらえると思いますが…」と粘った。

大家さんは「別にあんたんとこの社員に会う必要はないが、そこまで云うならどんな子供達か1回会ってみますか…?」と2人との面接が行われた。結果OK。大家さんは「とても気に入った。今日からでもいいから早くいらっしゃい!」と、喜んで入居を承諾して下さった。

お婆ちゃんの名前は小西セツさん。この時、「みんなに仕事で苦労をかけ、食事の支度の手伝い、更に住むことにまで辛い思いをさせてすまない。1日も早く安心して住める寮を造らなければ…、私を信頼して子供達を送ってくれた両親と来てくれた子達に申し訳ない」と強く心に念じた。